BLOG2024/07/05
設計事業グループの宮崎です。
もし魔法が使えるなら「戦争のない平和な世界になってほしい」ことです。
戦争は偶然に起こることはなく、人が決めるから起こることです。
私の父は徴兵検査が甲種合格だったため、20歳から33歳までの13年間を村の中では数少ない若者の一人として、軍人として戦争に召集され国の為に奉公しましたが、終戦後復員したものの家の農業の仕事ができない身体になってしまいました。
そして父が復員して1年後に母が戦時中の過労のために天国に旅立ってしまい幼い私たち兄妹5人は35歳の若い母親との突然の別れが実感できずに継母に育てられました。
農業経験のなかった継母も苦労したと思います。
私の小学校の同級生80人の内でただ一人幼い時から農業を手伝い二重の労苦を味わいました。
戦争体験者として皆さんにはこのような体験はして欲しくないと強く思います。
戦争は悲しみ以外の何も生み出さない。残酷で無意味であることを誰もが気ずいて欲しいと思います。
私は勤めていた会社の二度の人員合理化と吸収合併を経験しながら仕事人間として人生を送ってきましたが、定年(60歳)を迎える数年前に定年になったらどの様に生活してゆけばよいのか考えるようになり、何か趣味を持とうと考えカラオケは得意ではないが複式呼吸をして大きな声を出す詩吟なら健康に良く、友人も出来てよいのではないかと考えて詩吟教室に入りました。
詩吟教室の先生はキングレコードの詩吟と歌謡吟詠の専属歌手で房総地区で100名ほどの生徒を各地区(5から6名)に出張して教えていました。
当時は会社の仕事は超多忙でしたが、詩吟教室の仲間と相談して練習は2週間に1回、日曜日の午後6時からとしました。
毎日の練習は会社の昼休みに自分の車の中で、また会社の帰路に民家のない場所に車を止めて車の中で練習していたリ休みの日は小糸川沿いの民家のないところで川に向かって思い切り大きな声で練習していました。
流派の発表会は1年に1回でしたが、キングレコードの千葉、茨城地区の詩吟コンクールが1年に1回ありそのコンクールで入賞することを目標に日々練習していました。
コンクールには詩吟を習い始めてから3年目から出場し10年目にやっと詩吟部門で入賞し、次の年に歌謡吟詠(一番がカラオケ、2番が詩吟)部門でも入賞しました。
コンクールは毎年東京亀有文化ホールで行われ、キングレコードの審査員の先生7名と観客200名位を前にして歌うのは最初の3年位は足が震えてどうしようもありませんでしたが、場数を踏むと慣れて歌に集中出来るようになってきました。流派の発表会やコンクールの他にカラオケクラブの人と合同で発表会をしたり君津市の地区敬老会に出演したこともあります。
仕事と趣味の両立は大変ですが、仕事以外の友人や知人が出来て楽しみや生きがいになり、息抜きにもなりました。
会社の仕事がどんなに忙しくても必ず時間は作れます。
趣味を持って会社の仕事にも趣味にも全力投球して生き生きとした生活を送りましょう。
「60,70は洟垂れ小僧、男盛りは100歳から100歳から」
「今やらねばいつできる、わしがやらねば誰がやる」
100歳を超えても現役として活躍した彫刻家 平櫛田中さんの言葉です。
|